創立について

 平岡塾は、1965年4月、故平岡芳江(1922年-2007年)を塾長に、また実弟の故金谷晴夫元東大教授(文化功労賞受賞、勲二等旭日重光賞受賞、日本人で二人目のフランス科学アカデミー会員で元国立基礎生物学研究所所長)を顧問に、もともとは東大受験生専用の英語塾として世田谷区芦花公園に創立されました。当時は、1クラス15人未満のミニ塾でしたが、東大合格率95%以上を誇りました。その後、開成などへ通う東京東部の生徒さんたちからの要望により、1976年に渋谷に移ってまいりました。
 当塾は、創立当初より現在まで一貫して、他人に迷惑をかけない限り最大の自由を与え(授業中の飲食も自由です)、それによって生徒は臆することなく教師に質問をし、意見を述べています。また、機会均等の精神により、当塾は入塾試験をいたしません。学校指定制もとっておりません。クラス選択も自由で、能力に応じて一つ上あるいは下の学年のクラスに入る生徒さんもおります。

創立者の横顔

 平岡芳江先生は昭和9年(1934年)に、英語教育で誉れ高い神戸女学院に入学されました。卒業するまで英語の授業は週6~10時間で、授業ではいっさい日本語を使わせてもらえなかったそうです。中1の時にはストウ先生(Uncle Tom’s Cabin の作者であるストウ夫人の姪御さん)から発音を厳しく指導されました。当時の院長シャーロット・デフォレスト先生が交換船でアメリカへ帰国する際に「戦争はいつか終わります。日本人はこんなに文化が高いのですから、みなさんが大人になられたときに世界の文化に貢献していただきたい、そのためにも英語の勉強をお続けください」と励まされたそうです。
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以下の2つの記文は、平岡塾著『日本の「ダメ英語」を叩きなおす』(2008年、主婦と生活社刊)の「番外篇」として編まれた小冊子から抜粋したものです。

 平岡塾の創立者である平岡芳江先生が、2007年3月11日に他界して間もなく、塾の卒業生で元講師でもある大久保涼さん(現在、国際渉外弁護士)が、ご自身のブログに追悼文をアップされていました(http://chicagolaw.exblog.jp/5517401)。創立者の横顔を知って頂くよすがとなればと思い、大久保さんの了解を得て、以下に転載させて頂くことにしました。
 なお、読みやすさを考えて、適当な箇所で改行させて頂きました。

 つい最近知ったのだが、私の人生でもっともお世話になった恩師である平岡先生が、3月11日にお亡くなりになった。
 平岡先生は、渋谷にあるI. A. Prep School平岡(通称「平岡塾」)という英語塾の塾長で、私はここに中一から高三まで生徒として通い、その後五年間講師として働いた。
 平岡先生はとてもカリスマ性のある先生で、私が中一のころから有名な「ばあさん」だった。当時は桜丘の旧校舎時代だったが、平岡先生はまだまだお元気だったので、ほぼすべての授業をご自分でなさっていた。
 特によく覚えているのは、声を出して文章を読む練習や、基本的な文章の暗記を繰り返し繰り返し行ったこと。最初の頃は毎回「お帰り問題」というのがあって、たとえば時間に関する表現(What day of the month is it today ?など)約20個を平岡先生の前で正座してそらで暗誦できないと家に帰れない、とうシステムがあった。その他のお帰り問題としては、リンカーンの「The Gettysburg Address」の暗誦などがあって、今時の日本ではめずらしい英語教育法だった。
 塾なので、普通は大学に合格することが目標のはずなのだが、平岡塾はそうではなく、本物の英語力を身につけることが目標だった。そのため、日本の教材はほとんど使わず、主にイギリスの教材を使って、発音の練習、Speaking/Listeningの練習、マニアックな文法(前置詞の使い分け等)、読書、作文などを勉強した。読書の教材は、「ドンキホーテ」(中一)、「八十日間世界一周」(中二)、ジョージ・オーウェルの「動物農場」(高二)、ラッセルの哲学書、シェークスピアの「ヴェニスの商人」など、あの頃原文で読んでよかったと今からでも思えるものばかり。文法書もOxfordの文法書を使っていた。
 このように、大学合格を謳った学習塾や普通の学校の授業とは根本的にレベルが違ったので、本当に英語好きの優秀な生徒達が集まっていて、一緒に勉強しているだけでも楽しかった。アカデミックなサロン、と言ってもいいかもしれない。そんなわけなので、卒業生の東大合格率はもちろんとても高かった。
 でも平岡先生のすごいところは、勉強法だけではなかった。
 まずは外見。派手なスーツに巨大な宝石を身につけ、タバコをふかしながら、「はい次。そこのセーラー服のねえちゃん。は?やってない?だっめ!!やる気ないならもう帰んな。」などと生徒を当てていく。
 神戸女学院出身の関西弁。ヒルトンホテルに住み、ハンドバックには札束が入っている。貫禄たっぷりで、平岡先生が教室に入ってくると教室の空気がぴんと張り詰めた。
 そして、その信念というか熱意が魅力的だった。ある日、宿題もやらずに授業中私語をしていた男子生徒が、平岡先生に注意されて、反抗した。平岡先生は当然怒り「もう出てけ。」と命令した。その生徒は、「授業料払っている。」とさらに反抗した。
 平岡先生は、待ってろといって5分後に札束を持って教室に再度現れ、「私は親御さんから授業料をもらって貴重な生徒たちを預かっている。この子達がきちんと英語ができようにする責任がある。だから、邪魔する人は要らない。授業料払ってると言ったが、それはあんたの親が払ってるんであってあんたが払ってるんじゃない。親に感謝もしないで、なんのつもりだ。今までの授業料全部返したるから出てけ。」というような趣旨のことをおっしゃって、彼の面前に向かって札束を投げた。教室に一万円札が舞い、その生徒のみならず、助手の先生含め全員がびびった。
 脱税で逮捕された話も有名だが、「国に税金として払ってもろくな使い方しないんだから払わなかった。」と取調べ検事に言ったというのだから、ある意味信念を曲げなかった人と言えるだろう(もちろん脱税は犯罪で悪いことですが)。
 最先端の分野で活躍している卒業生が、昔を偲んで平岡先生に会いによく平岡塾に遊びに来ていたが、そのように先生・生徒間や生徒間の絆が深いのも平岡塾のいいところだった。
 私も未だに当時のクラスメイトとは交流があるし、講師時代に教えていた生徒からも未だに「大学に入りました。」、「就職しました。」などの報告をもらったりするのがとてもうれしいのだが、そんな学習塾はめったにないだろう。
 とにかく、帰国子女でもない私が渉外弁護士となり、アメリカのロースクールを卒業し、今こうしてアメリカの法律事務所でまがりなりにも働けているのは、平岡塾ひいては平岡先生にお世話になった11年間のおかげであり、とても感謝しています。平岡先生のご冥福をお祈り致します。

追記 この日、私のブログ始まって以来の1日355アクセスを記録しました。今更ながら平岡先生の影響力を感じた次第なので追記しました。

 世間から「女傑」と称された平岡塾の創立者、平岡先生。生い立ちから亡くなるまでの85年間は、現代の私たちからすると、まさに小説のヒロインのような、ハイカラで波乱万丈の生涯でした。その片鱗は先のブログでも伺い知ることができます。
 ここでは、先生ご自身が、折に触れて私たち講師に語ってくれた、幼少時代についてご紹介します。晩年は破天荒ぶりが注目されましたが、実は、幼少期の先生はかわいらしい、おてんばなお嬢様でした。いわゆる「平岡的教育」の原型は、幼年時代の人格形成にありました。
 平岡芳江先生は、1922年(大正11年)2月20日に、大阪の造り酒屋である資産家の家に生まれました。日本では、ある宮家に次いで、二番目に自家用クルーザーを所有したそうです。父親は慶応ボーイで、仕事をすることもなく、ずっと家で本を読んでいました。平岡先生も父親の影響で、子供の頃に世界や日本の文学に慣れ親しんでいました。
 後に芦屋に移り住み、昭和9年に神戸女学院に入学して、英語を本格的に学び始めました。中学一年生のときには、『アンクルトムの小屋』を書いたストウ婦人の姪御さんから英語を習い、強く感銘を受けたそうです。
 芦屋には当時から、谷崎潤一郎が『細雪』で描いたとおりの、ハイカラな風情があり、先生もそのなかで、洗練されていったのだと思います。
 ちなみに、近所に住んでいた「マーちゃん」が仲良しの幼なじみです。マーちゃんは大人になって、第28代日本銀行総裁となりました。速水優氏です。
 フランス科学アカデミー(1666年創設)が外国人会員を創設するにあって、最初のメンバーの一人に選んだ金谷晴夫氏は、先生の八つ下のご実弟です。生物学者として東京大学で教鞭をとられましたが、姉である平岡先生からの影響は大きく、とりわけポール・ヴァレリーを愛好した文学青年であったそうです。
 ヒトデの研究をなさっていた関係で、昭和天皇へのご進講もなされ、1983年には長年の研究が認められて文化功労賞を、また勲二等旭日重光賞を受賞されました。金谷氏については、『続ロマンチックな科学者』で詳しく紹介されています。
 平岡先生も弟である金谷氏を心のよりどころとしていたようで、同氏が亡くなられたさい、「これで天涯孤独になってしまった」と漏らしたと聞いています。

 先生は自身の著書『平岡塾長の親指南』のなかで、「勉強の基礎は人間の基礎からつくられます。勉強に必要な持続力、根気、忍耐力は、小さいときからの心の教育から生まれます。平岡塾のモットーは生きるための基礎力を身につけることです。」と述べています。
 先生自身は幼少時代に、奉公人のハルさんから「人間の基礎」を学んだそうです。おハルさんは、徳島から先生の実家に丁稚奉公に来ていて、尋常小学校しか出ていない女中さんでした。
 先生はおハルさんから、女性としての立ち居振る舞いの基礎を学びました。おハルさんの口癖は、「お嬢、そんなことあきまへんで」だったそうです。草履の脱ぎ方や、箸の持ち方などを教わりながら、生活に密着した「生きるための基礎」を学びました。
 「おしん」のように朝早く起きて、寝る間も惜しんで炊事、洗濯をはじめ家事全般をこなすおハルさんの姿は、先生のものの考え方に大きな影響を与えました。
 神戸女学院時代には、アメリカ人の女性宣教師であるデフォレスト院長から、キリスト教的人間学の薫陶を受けました。大阪で生まれ育ったデフォレスト女史は、戦争中はアメリカに行って、日本人収容所で日本人のために尽力されたそうです。
 日本の心を解するデフォレスト院長の教える世界観と、おハルさんの人生・生活観が融合して、平岡先生の価値観が形成されていったのかもしれません。おハルさんとデフォレスト院長は国籍も境遇も全く異なる人ですが、平岡先生はあらゆる立場の人間にとっての基礎を、この二人の女性に見いだしたことでしょう。
 「日本的な情緒と伝統」と「ハイカラな英語の世界」。かくして、のちの平岡塾の基本精神が形作られていきました。

 先生の晩年にも少し触れましょう。
 自分でクラスを担当しなくなってから、各教室を見て回るのが先生の日課となりました。
 「ハイ、そこのお嬢、不定詞の用法、ゆうてみて」。生徒以上に私たち講師の方がハラハラ、ドキドキです。「ダ~メ。センセ!いったい何を教えてはんのん!」と、私たちを叱咤激励することもありました。
 足腰が弱ってからは、杖を突いて、階段を一段一段のぼり、子供たちの様子を見て回りました。卒業生が遊びにくると、とても嬉しそうに長話に興じます。卒業生と再会することが、先生にとっては何よりの元気の源でした。
 2005年の中頃に、先生は圧迫骨折におそわれました。それ以後、先生は教室に来ることができなくなり、代々木の自宅で療養の日々に入りました。
 ほぼ一日中、ベッドの中での生活です。時には風邪をこじらせて、新宿の東京医科大学病院に入院することもありました。こうして、かつての凛とした先生の姿は見られなくなり、ごく身近な人間としか面会しようとしません。
 ただ、気力はまだまだ充実していて、週に二回往診に来られる医師と時事を語ったり、昔好んで読んだGone with the Windなどのペーパーバッグを手に取りました。まるで少女時代に戻ったかのように、天使のような穏やかな表情で悠々自適の日々を送りました。
 2007年(平成19年)3月、新高校一年生の入塾説明会が盛況のうちにとり行なわれたことを報告すると、「よかったねー」と笑みを浮かべていました。安心したのか、そのわずか4日後の11日午後11時に、入院先の同病院で、眠るようにして天に召されました。
 あれから一年、私たちには先生の、「そんなのダーメ」という厳しいお言葉、「ホント、よかったねー」という優しいお言葉が、今でも聞こえてきます。

(2008年3月平岡塾記)

基本方針

主体的個人の育成

 平岡塾では創立以来、自分でまず予習(宿題)をし、それを携えて授業に臨み、なぜ間違ったのかを確認し、そして自分で復習するという方式を採っています。勉強とは「教えてもらう」という受動的なものではなく、「学びとる」という能動的な営みです。特に語学は器楽やスポーツと同様に「技術(arts)」です。漫然と講義を聴いているだけでは絶対に向上しません。平岡塾は「やる気にさせる」塾ではありません。「やる気のある人」が集まる塾です。

独立独歩

 平岡塾で伸びる人は独立独歩の人です。ひとくちに英語学習といっても、文法、読解、英作、会話、例文暗記のそれぞれに得手不得手があるものです。予習に重点をおく人、復習に時間をかける人など、各々やり方は違っています。それでよいのです。また、母語である日本語の能力や論理的思考力の深まりに応じて、中学生で伸びる人、高校生で花開く人、さまざまです。周囲のペースに惑わされず、焦らずじっくり歩を進めてください。

自己管理

 平岡塾の宿題は必ずやってきていただきます。平常授業は週に1回です。その週の計画を自分で立てて自分で管理し、次の週までの宿題を終わらせて授業に臨んでください。一気にやる人もいれば、数日に分けてやる人もいるでしょう。学校行事やご家庭の事情で、時間配分が変わることもあるでしょう。また、時には授業を欠席したり遅刻したりすることもあるかもしれませんが、大切なことは、そのために抜けた部分をどうするかです。自分をごまかすことなく、しっかり管理してください。そのような人の質問は大歓迎です。

反復的・立体的な
授業構成

 平岡塾では各文法単元を原則1回で教えきります(もちろん学年に応じて難易を調整しますし、2巡目3巡目の説明もあります)。例えば不定詞プリントを解説された後はそれをファイリングし、毎授業で携行し、文法・読解・英作で不定詞が出てくる度にプリントを開いて当該箇所を確認して何度も復習します。また、文型や品詞、文の要素といった視点から英文構造を分析する一方、単文・重文・複文の書き換えも重視するなど、同じ題材を縦横さまざまな角度から学びます。

能率主義

 平岡塾では宿題をしてこなかった人には原則あてません。家で時間をかけて準備をしてこなかった生徒にあててその生徒が授業中に考え込んでしまうと、その時間は他の生徒にとって無駄になりますし、クラス全体の雰囲気が弛んでしまうからです。宿題をしていなければあてられないのをよしとするようでは到底見込みはありません。必ず宿題をやってきて、授業には能動的に参加してください。

実証主義

 平岡塾では何事も積極的に発言してください。「宿題をしてきた」とか「自分はある事を理解している」あるいは「この部分が分からない」など、自分の知識や理解度を声に出して示していただきたいのです。授業中にこちらから生徒さんにさまざまな質問を繰り出すことも多々あります。そのような時にも、間違いを恐れず、堂々と発言してください。それによって「自分は何を分かっていないのか」が明らかになりますし、人前でしっかりと自己表現すること自体が英語学習の一部でもあるのです。

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